死の片付け
スウェーデンには「döstädning」という言葉があるそうです。
dö は dead(死)ですが、städning は cleaning は意訳なら片づけや掃除、つまり「死の片づけ」になってしまいますが、詩的な「死への浄化」が私にはしっくりきます。
日本では「終活」という言葉の方が馴染み深いようですが、「döstädning」の意味するところの方が深くて好きです。
※スウェーデン語での発音は こちらの発音辞典サイトを参考にしてください。
私は今、まさにこれにはまっています。はまるという言葉が相応しいかどうかは別として。
いつどんなことで突然命が絶たれるかわからないので、準備をしておこうという単純な理由ですが、これには、数年前に志半ばで急逝した友人のことが関わっています。
10年先、5年先、明日があると思わず、死への準備をしておこうと思ったのです。
よく親の家を片付けようとすると、『俺/私が死んだ後に全部捨てちゃっていいから』とか『お金になりそうなものは全部あげるから』という会話になってしまうことがあります。
でも、血縁であっても別々の人間。いくら親しくても、手間や時間、ときには金銭を負担させて良いわけがありません。
第一、どれがお金になるかなんて、選んで調べることこそ大変な労力です。
実際に始めてみて、2つのことを実感しました。
1つは、終わりが見えない!(笑)
私は何度かの引っ越しのたびにモノを減らしてきたのですが、まだまだ取捨選択しきれていないのがよくわかりました。
必要最低限のモノしか残さないように努力してきたのに。
いえ、残っているものほど思い入れがあるわけですから、当然と言えば当然でしょう。
2つ目は、自分のことが段々わかってきた!(涙)
半世紀以上生きてきて今さら何?と言われるでしょうが、押入れの奥に入れたままのモノと正面から向き合うとき、それは即ち自分と向き合うことに他ならないことに気づきます。
これが初めて自分のところに来たときのこと、なぜこれが今まだここにあるのか、この先これとどうかかわっていきたいのか。
ひとつひとつ心の中で対話することがとても大切です。
目の前にいくつもの分かれ道が霧に隠れている年頃までは、この作業は難しいように思います。
またある意味、とてもドラマティックな作業でもあります。
いつになったら「よし、準備OK!」と言えるのかわかりませんが、しばらくはまってみようと思っています。